起首 それは関ケ原の戦いから
尾島と弘前市とのつながりは、古く、江戸時代初期までさかのぼります。豊臣秀吉によって津軽3郡4万5千石の所領を安堵された初代藩主津軽為信(ためのぶ)公は、関ケ原の戦い(1600)で東軍に味方をして、美濃国大垣城を攻めました。その功によって家康から上野国6か村2千石を加増され、約半分の930石(太館600石・安養寺297石・出塚31石)を尾島の地域で占めていた、こうして尾島に津軽の飛び地が出来ました。大館(大館村)には天和3(1683)年までは、津軽藩の代官足立氏が住んでいました。その墓は現在も大館東楊寺境内にあります。大館には「大館御前」(辰子)と呼ばれた側室がおり、津軽二代藩主津軽信牧(のぶひら)公と大館御前との長子として、大館に生まれた津軽信義(のぶよし)公は、寛永8年(1631)年に13歳で家督を継いで3代藩主となりました。このような史実がもとになり 昭和60(1985)年6月交流が始まった・
尾島ねぷた祭りは
旧尾島町(現太田市尾島町他)は青森県弘前市と友好都市の盟約(1991年11月25日)を結びました。これは太田市になり引き継がれています。
「江戸時代に津軽藩の飛び地がありました。津軽藩三代藩主津軽信義(のぶよし)公は尾島町大館の地で生まれました」という
日本ふるさと塾萩原茂裕先生の講演を聞いた (社)弘前青年会議所のメンバーが、昭和60(1985)年に訪ねて来て当時の尾島町商工会青年部と交流が始まり、
それがきっかけとなり 翌1986年八月の尾島まつりに弘前ねぷたを出陣していただきました
以来商工会青年部を中心にねぷたが盛り上がりさまざまな経過を経て現在は 毎年8月14日15日に、
町の商店街を通る旧国道354号線通行止めにして運行しています。
ねぷたも今では15台前後出陣し 人口14500人の旧尾島町のエリアに二日間で10万人の人出があります
本場 弘前とはまた一味違う 尾島ねぷたまつり よろしかったら お出かけください。
実は店長(スズキヒロカズ)は 尾島町商工会青年部の元部員でした、毎年店の前を尾島ねぷた祭りが運行されます。
以前写真からいまの写真までupしてみました。昔ガラケーの写真あり アナログの一眼レフあり、デジカメありと素材は色々です。私の撮った2011年の動画は、ここにまとめてあります。太田市のねぷた動画のリンクはこちら
鏡絵コレクション
見送り絵・肩コレクション
人形ねぷた金魚ねぷた 町印 前ねぷた 他 コレクション
太鼓の演奏の様子 合奏は4丁目の交差点です。見ごたえがります。女性は太鼓の上に乗るは尾島ねぷたならでは、です。本家弘前ではあまり見かけません。
2004年上州夏の祭り は8/21(土)前夜祭から~22(日)まで前橋 県庁前にねぷたが登場しました。群馬県内の大勢のお客様に披露する事が出来ました。